年間第2主日
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◆今日の聖書物語
ヨハネによる福音
(1:29-34)
1:29
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31
わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32
ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33
わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34
わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
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主日の福音朗読(A年)
年間第2主日 ヨハネによる福音 (1:29-34)
http://www.donboscojp.org/sdblogos/C6_7.htm
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イザヤ書
(49:3、5-6)
49:3
また、わたしに言われた、「あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。
49:5
ヤコブをおのれに帰らせ、イスラエルをおのれのもとに集めるために、わたしを腹の中からつくってそのしもべとされた主は言われる。(わたしは主の前に尊ばれ、わが神はわが力となられた)
49:6
主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。
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Psalm:詩篇
(40:2,4,7-10)
40:2
主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
40:4
主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
40:7
その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。
40:8
わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。
40:9
わたしは大いなる集会で、救についての喜びのおとずれを告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。
40:10
わたしはあなたの救を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを告げ示しました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを大いなる集会に隠しませんでした。
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コリント人への第一の手紙
(1:1-3)
1:1
神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
1:2
コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。
1:3
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
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◆聖書のことば (益田カトリック教会)
http://www.iwami.or.jp/masuka/seisyokotoba.html
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◆こうじ神父 今週の説教
http://blog.goo.ne.jp/knkouji/m/201101
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◆今日の読書
ローマ人への手紙
(4:1-25)
4:1
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
4:2
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4:4
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
4:6
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
4:7
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
4:8
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
4:9
さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
4:10
それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
4:11
そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、
4:12
かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。
4:13
なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。
4:14
もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
4:15
いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
4:16
このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
4:17
「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
4:18
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
4:19
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
4:20
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
4:21
神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
4:22
だから、彼は義と認められたのである。
4:23
しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、
4:24
わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。
4:25
主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。
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◆今週の聖書朗読 (新共同訳)(イエスのカリタス修道女会)
http://www.m-caritas.jp/reading.html
◆CNA今日の聖書朗読(英語)
http://www.catholicnewsagency.com/calendarday.php?date=2011-1-16
◆教会カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/
◆カトリック千葉寺教会
http://www.chiba-net.or.jp/~sscchiba/
携帯HP:http://www.chiba-net.or.jp/~sscchiba/mobile/
◆カトリック要理の友
http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori.html
◆キリストの生涯
http://www.tomoshibi.or.jp/christ/index.html
◆主イエス・キリストの福音・よい知らせ (ゴスペル)
http://www.rock.sannet.ne.jp/hg31cc/index-j.html/index.j1.html#ctyscon
◆携帯で読む聖書(口語訳)
http://www.keitaibible.net/m2/index.html
◆口語訳聖書(PDF版)
http://bible.salterrae.net/kougo/pdf/
◆The World English Bible
http://ebible.org/web/